Vol.6 「わたしと真言律宗根聖院」-酒部浩明僧正

私は奈良市三碓町の「根聖院」という寺に生まれ育ちました。
町名は「みつがらす」と読みます。
この名の由来となった「いしうす」が根聖院にあります。
今から約1300年前に小野福麿という人がこの地域を治めていました。
この人が神に捧げる為の穀物を三つの窪みの空いた石の「からうす」で挽いていたところ、聖武天皇が御覧になりこの土地を「みつからうす」と名付け、後に「みつがらす」と呼ばれるようになりました。
この名のいわれはあまり知られていないようでして、よく三つ足の烏(やたがらす)と間違われます。
現在は私が住職を勤めておりますが、最近まで父が住職でした。
父は元々徳島県の阿南市の出身でしたが、幼いころ両親と死に別れたため徳島の寺に預けられました。
18歳の時京都の大学に入学するにあたり、生駒の宝山寺から通わせていただくことになりそれ以来85歳まで僧侶として宝山寺に奉職しておりました。
昭和30年に結婚を機に当時無住職であった根聖院に移り住みそこから宝山寺に通っておりました。
その頃の根聖院は大変なおんぼろで私が子どもの頃までは床が抜け雨漏りがして大変だったのを覚えています。
母は大阪から嫁いで来たので「こんな田舎のお化け屋敷のような所で一生暮らすのか」と毎日が憂鬱だったと当時を振り返って言います。
毎日毎日、掃除と草刈りに明け暮れ一日があっという間やったとも言うておりました。
父は「坊さんの仕事は掃除が一番や。
掃除の出来ん坊主は何の役にも立たん」といい、自らも少しでも時間があれば草を刈り、木の枝を剪定し、土を運び、石垣を積む等こまめに動いておりました。
おかげで鎌で指を切り出血するは日常茶飯事で、木からは三度堕ちて二度骨折を経験しております。
そんな苦労の甲斐あってか、神仏の御加護のおかげか昭和63年に本堂の新築落慶をすることができ、2年後の平成2年には庫裏の新築をすることができました。
今では昔の面影はなく、小さいながらも小綺麗な山寺となっております。
私は一年間僧侶の基礎を学ぶため高野山専修学院に入り、昭和63年に卒業の後西大寺に勤務することとなりました。
根聖院だけでは経済的に寺の維持管理は厳しいものですから父は宝山寺に奉職、私は西大寺に奉職の道を選びました。
西大寺は現在真言律宗の総本山で根聖院も長弓寺様も西大寺の末寺です。
真言宗は十八の本山に分かれていて西大寺はその中の一つです。
真言宗の中でも特に戒律を重んじるということで真言律宗と名付けられました。
西大寺の創建は奈良時代の天平神護元年(765年)に称徳天皇が鎮護国家と平和祈願のために7尺の金銅四天王像の像立に着手したことに始まります。
文字通り東の東大寺に対する西の大寺にふさわしい官大寺でした。
途中再三の災害にあったのですが、鎌倉時代に名僧興正菩薩叡尊上人が寺に入って復興に当たり、真言律宗の根本道場として整備されたのです。
ところで西大寺の大茶盛というのは御存じでしょうか。
直径40㎝程もある巨大な茶碗を隣の人に支えられながら飲み回すというものです。
これも興正菩薩叡尊上人が始められたものです。
延応元年(1239年)叡尊上人が八幡神社に御献茶をされ、残ったお茶を施茶として来ていた大勢の人にふるまいました。
茶碗が足らず、家から大きな器を持ち寄って回し飲む様が酒盛りならぬ「茶盛り」だということで始まったとされています。
今は重さ7キロ、火鉢ほどの茶碗を三人がかりで持って飲みます。
茶碗が出てきただけで「わー!」と歓声が上がり場がなごみます。
体験をされた方はその茶碗の大きさだけが印象に残りますが、実は大茶盛には深い宗教的意味合いが隠されています。
それは「一味和合」の精神です。
一つの茶を平等に分かち合うことで互いに仲良くしましょうということです。
昔から「同じ釜の飯を食った仲間」と言われるように、同じ時間に、同じ場所で、同じものを食すことで互いの絆を深めてきました。
家庭でも夕食に家族そろって食卓を囲み、今日一日あったことを話しすることでお互いの意思の疎通をはかったものです。
近年は御主人は残業で遅く、子どもは塾の教室でコンビニ弁当を食べ、家族揃って共に食すことが少なくなったと聞きます。
これではコミュニケーションは図れません。
西大寺では家族の絆、お隣さん同士の和合を更に深めましょうと云う意味を込めて大茶盛を行っています。
如何です、今度「大茶盛」体験されてみては?

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