Vol.13「私の虹色人生」-平口 治さん(イコマ製菓本舗)

はじめまして、わたくし平口治と申します。
現在イコマ製菓本舗という会社でレインボーラムネというお菓子を製造、販売しています。
この度は副住職さんと縁あって寺子屋新聞にお話を投稿させていただきます。
今の仕事は父から受け継ぎました。
父(故・一雄)は少年時代、家庭の事情で小学校に行くことが出来ない時期がありました。
その事が同じ村に住んでおられた宝山寺管長、故・松本実道猊下の耳に入り、ご配慮で入寺させていただき小僧さんとして従事しながら生駒小学校を卒業したそうです。
その後太平洋戦争が起こり、終戦で帰国した時には仕事も食べ物も無い世の中でした。
そんな戦後の食糧難の中、苦労して仕入れた原材料を使いお菓子作りを始めました。
すると面白いように右から左へと売れていったそうです。
今の私があるのは父親が戦後苦労をしてこの会社を作ってくれたからですが、もう2人御指導してくださった心から尊敬する方のお陰であると思っています。
この仕事に入った時はオイルショックで日本が揺れており、戦後復興、経済大国へと推し進めた矛盾が出てきた大変な時代でした。
在庫の山に埋もれ、不振にあえいでいた折に、高山製菓の齋二勇治会長と面会する機会がありました。
会長からは「おいしいものを作れば必ず売れる、決してまずいもんは作ったらあかん。
材料はいいもんを使いなさい」など、色々なアドバイスを受けました。
その後中近東のサウジアラビアやオマーンに輸出しようという話を東大阪の(株)ベル玩菓の松葉善治社長よりご連絡を頂き、海外に輸出した事もありました。
数年間は順調で、1ドル220円を切った時採算が合わなくなり仕方なく手を引きましたが、世界の広さを肌で感じながら仕事を進めることが出来た貴重な経験でした。
このお2人は仕事のみならず人生の先生であり、目標とする人です。
その人のようになりたいと思える方が前を歩いていてくれたお陰で今ほど商品は売れていませんでしたが、充実した日々を過ごしていました。
そんな中、1993年にはプロサッカーリーグ、Jリーグが始まり、子ども人気も野球よりサッカーが上回っていました。
Jリーグの華々しい雰囲気が日本を包んでいた時に生産を始めたのが20ミリの丸型ラムネあります。
サッカーボールを思い1年がかりで製造したのですが、名前が決まらず悩んでいました。
そんな時にたまたま夜のスポーツニュース番組の中で、サッカーゴールシーン・ダイジェストが目に入りました。
得点したボールの軌道を虹色に編集してレインボーシュートと叫んでいるのを見て「これだ!」と思い、『レインボーラムネ』と名付けました。
売り出した当初は伸び悩みましたが、インターネットの”ミクシー”が流行してその中で話題になり、だんだん人気が出てきました。
私はパソコンが苦手です。
だからインターネットの中の日記、ブログなどに書いていただくものの、私の知らないところでどんどん盛り上がり、いつの間にか売り上げが伸びていきました。
齋二会長の「おいしいものを作れば必ず売れる」といわれたことをその時実感いたしました。
人気は出て嬉しかったのですが、新たな問題が持ち上がりました。
このラムネには自分だけのこだわりの工程があり、そこだけは誰にも任すことが出来ません。
そのため製造できる数量は限られて、葉書抽選販売とさせていただいております。
本当に申し訳ないかぎりです。
「なんで売れるとおもいますか」とよく聞かれますが私にはわかりません。
ただ素晴らしい方の導き、お客様皆様に支えられて人気が出たのだと思っています。
作ったラムネを食べて1人でも多くの人達に喜んでいただければ幸せです。
人生の後半になりこんなに素晴らしい日々を送らせていただき毎日が幸せです。
お客様、従業員、家族に支えられている日々を実感しています。
本当にありがとうございます。

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