Vol.24「”感謝”」工藤 顕任さん(般若寺 副住職)

「般若寺顕任」プロボクサー時代のリングネームです。
生まれはコスモスが咲くお寺として知られる、奈良市にあります般若寺です。
兄弟は姉が三人の末子長男です。
子供の頃は家がお寺で、いずれ自分がお寺をやっていくという意識は全くありませんでした。
昔から目立ちたがり屋で、小学校低学年の頃は、教卓の上に立って踊っていた様な子供でした。
小学校の頃はサッカーをやってみたり、中学では三年間バスケットをやりました。
中学校三年の二学期の時だったと思うのですが、元世界チャンピオンの畑山隆則さんの試合を見て生意気にも「これやったら自分でも出来るかもしれへん!強くなりたい!」と思い、ボクシングの世界に憧れを持つようになりました。
友人と般若寺の本堂の縁側でボクシングのスパーリングの真似ごとをして遊んだりもしました。
ほぼ素手に近い状態だったんで、今考えれば怖いですね(苦笑)中学を卒業し、高校に進学しましたが、勉強や学校生活に楽しさを見出せず、先生とも合いませんでした。
学校をサボって、地元の友人達と遊んでる方が楽しかったのです。
結局一年生の終わりに自ら中退をしました。
辞めてからは単位制の高校に通い、バイトをして友達と遊ぶ日々を過ごしていました。
お金を貯めて沖縄に二か月程住んでいた事もありました。
そんな時、西大寺にボクシングジムが出来たことを知り、中学の時のボクシングへの憧れが蘇ってきたんです。
さっそくボクシングジムの門を叩きました。
入って一週間ほどで会長にスパーリングを申し出ました。
とにかく強い人と戦って自分の実力を試してみたいという思いがあったのです。
結果は一発も当てる事が出来ずに、ボディーを一発くらってマットに沈みました。
惨敗です。
しかし、やられても、それまでの退屈な日々にはなかった楽しみや、強くなりたいという向上心が湧き上がってきました。
それから毎日ジムに通うようになり、考え方や物事に取り組む姿勢、生活全体が180度変わったんです。
ボクシングをしている事に関しては誰にも反対はされませんでした。
最初、住職である父親には「厳しいスポーツや。三か月続けばええんちゃうか」と言われました。
でも途中からはイケイケドンドンで応援してくれました。
通いだして一年半くらいした時にプロテストを受けてプロボクサーになりました。
当時18歳でした。
会長に「般若寺顕任」というリングネームをつけてもらったのです。
練習は厳しかったですが、頑張ればその分強くなっていくのが楽しく感じました。
でも減量は厳しかったです。
水すら飲めない時もありました。
おかげでこの頃から食べれる有難みを気づかされましたね。
家族も皆んな応援してくれていました。
現役生活での戦績は4戦2勝1敗1分け。
最後は奈良100年会館で地元興業での試合でした。
地元奈良の試合を最後に引退をしました。
目の怪我をして手術したことも引退の理由の一つだったのですが、試合直前、父親が病に倒れた事が最も大きな要因でした。
今まで「寺を継げ」と口に出して言われたことはなく、自分の好き勝手やってきました。
親には散々心配をかけました。
このままボクシングを続ける事が、本来、親が望んでいた道ではないと分かっていましたので。
般若寺と家族への、感謝と恩返しの気持ちで自ら僧侶になる道を選びました。
ボクシングで得た経験は僕の人生の大部分を占めています。
好きな言葉が「人並みの努力では人並み以下、人並み以上の努力でやっと人並みと思え」これは現役時代に会長に教えてもらった言葉です。
今もこの言葉が自分の中では生きています。
般若寺は祖父がきた頃は荒れ寺でした。
それを父が磨き、今の般若寺があります。
自分の役目は般若寺を多くの人に知ってもらうことだと思っています。
勿論、コスモス寺ですから花の勉強もしなくてはいけません。
これからまた新たな挑戦ですが、負けん気というか、挑む気持ちはボクシングとよく似ていると思っています。
今までの経験を活かしてこれからも般若寺を盛り立てていく為に頑張っていきたいと思います。

般若寺

般若寺は飛鳥時代に創建され天平のころ平城京の鬼門を鎮護する寺となる。
以来、般若経の学問寺として栄え数々の文化財を今に伝える。
またコスモス、水仙、山吹など四季に咲く花の名所である。
歴史ある花と仏の浄刹。
http://www.hannyaji.com/

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